こんにちは、
よーちゃんです。
宮本武蔵VS佐々木小次郎
といえば「巌流島」。
横浜流星”武蔵”VS中村隼人”小次郎”
舞台「巌流島」が上演されます。
俳優の横浜流星さん(26)が26日、
山口県の“巌流島”で行われた主演舞台『巌流島』(2023年2月から上演)の
オンライン製作発表会見に出席し、
意気込みを語りました。
本作は、剣豪・宮本武蔵と佐々木小次郎の『巌流島の戦い』に焦点をあてた物語。
2人はどこで出会い、なぜ戦わなければならなかったのか、
歴史に残る壮絶な戦いを新たな解釈で描く、大型アクション時代劇です。
横浜さんが宮本武蔵、歌舞伎俳優の中村隼人さん(28)が佐々木小次郎を演じます。

会見は、実際に戦いの舞台となった山口県下関市の巌流島(船島)で開催されました。
中村隼人さんと舞台演出の堤幸彦さんも出席しました。
横浜流星さんは巌流島を初めて訪れたそうです。
Yahooニュース
横浜流星さん
1996年9月16日生まれ
俳優。
神奈川県横浜市生まれ埼玉県出身
スターダストプロモーション制作2部所属
特技
極真空手(初段)
中学3年生の時に世界大会
「2011年 第7回国際青少年空手道選手権大会 13・14歳男子-55kgの部」で優勝。
世界一に輝いた経歴を持っています。
インドア派
「極力僕は家にいる。」
理由は、
「誰にも気を遣わず自分の好きなことを好きな時間にできるから。
自分は悩みとかを人に相談しないタイプだから、
自分の部屋にいるときの自分を見つめ直す時間や向き合う時間を大切にしています。
だから家にいる時間も多くなる」
また瞑想みたいな感じで、精神統一して家の壁を見ることが好きだということです。
横浜流星さんのコメント
「武蔵と小次郎が世紀の一戦を交えた場所で、
同じ空気を吸えていることが感慨深いですし、
必ず役作りに影響してくると思うので、来られてよかったです。
特別なパワーを感じるし、戦いにふさわしい場所だなと感じた」
と武蔵と小次郎の戦いに思いをはせました。
役作りについて
令和版武蔵を演じる横浜流星さんは、
「脚本では武蔵の葛藤、心の揺れを濃く作ってくれている。
新解釈の物語ということで、
史実を大事にしながらも自分にしか出せないものを出して、
新たな武蔵を生きることが出来ればなと思っています」。
「世界観だったり、(武蔵と小次郎)2人の関係性だったり、
それぞれの生き様だったり、生々しい殺陣。
見どころはたくさんあると思うので心に残る作品にしたい」と語りました。
宮本 武蔵
天正12年〈1584年〉? – 正保2年5月19日〈1645年6月13日)
江戸時代初期の剣術家
大名家に仕えた兵法家、芸術家。
二刀を用いる二天一流兵法の開祖。
中村隼人さん
1993年11月30日生まれ
俳優
歌舞伎役者
屋号は萬屋
定紋は桐蝶
東京都出身
松竹エンタテインメント所属
身長177cm
A型
中村信二郎(現、二代目中村錦之助)の長男
俳優萬屋錦之介や中村嘉葎雄は、大叔父にあたります。
中村隼人さんのコメント
歌舞伎以外で大規模な舞台に出演するのは初めてという中村隼人さん。
“歌舞伎役者だからこそ表現したいことがあるか”を聞かれると「初めてだから何がどう生きるのか分からない。」
「歌舞伎はマイクがない演劇なので、自分なりに(喉は)鍛えてきたつもり。
先頭に立てるように頑張ります」と語りました。
佐々木 小次郎
生年不詳 – 慶長17年4月13日(1612年5月13日))
安土桃山時代から江戸時代初期に実在した剣客。
剣豪として岩流(巖流、岸流、岸柳、岩龍とも)を名乗ったと言われる。
巌流島の戦い
巖流島
山口県下関市・関門海峡に在る島(無人島)です。
正式名称は船島(ふなしま)といいます。
宮本武蔵と佐々木小次郎の決闘が行われたとされることで有名。
決闘が行われたとされる当時は豊前小倉藩領の船島でした。
小次郎が「巖流」(「岩流」とも)を名乗ったことから巖流島と呼ばれるようになりました。
巌流島の戦い~史実~
巌流島の戦いは諸説あります。
『小倉碑文』承応3年(1654年)
岩流と名乗る兵術の達人が武蔵に真剣勝負を申し込んだ。
武蔵は、貴方は真剣を使用して構わないが自分は木刀を使用すると言い、
堅く勝負の約束を交わした。
長門と豊前の国境の海上に舟嶋という島があり、両者が対峙した。
岩流は三尺の真剣を使い生命を賭け技術を尽くしたが、
武蔵は電光より早い木刀の一撃で相手を殺した。
以降俗に舟嶋を岩流嶋と称するようになった。
とある。
『沼田家記』寛文12年(1672年)
宮本武蔵玄信が豊前国に来て二刀兵法の師になった。
この頃、すでに小次郎という者が岩流兵法の師をしていた。
門人同士の諍いによって武蔵と小次郎が試合をする事になり、
双方弟子を連れてこないと定めた。
試合の結果、小次郎が敗れた。
小次郎の弟子は約束を守り一人も来ていなかったが、
武蔵の弟子は島に来ていて隠れていた。
勝負に敗れ気絶した後、蘇生した小次郎を武蔵の弟子達が皆で打ち殺した。
それを伝え聞いた小次郎の弟子達が島に渡り武蔵に復讐しようとした。
武蔵は門司まで遁走、城代の沼田延元を頼った。
延元は武蔵を門司城に保護し、
その後鉄砲隊により警護し豊後国に住む武蔵の親である無二の所まで無事に送り届けた。
『西遊雑記』天明3年(1783年)
岩龍島は昔舟島と呼ばれていたが、
宮本武蔵という刀術者と佐々木岩龍が武芸論争をし、
この島で刀術の試合をし、岩龍は宮本に打ち殺された。
縁のある者が、岩龍の墓を作り、地元の人間が岩龍島と呼ぶようになったという。
赤間ヶ関(下関)で地元の伝承を聞いたが、
多くの書物の記述とは違った内容であった。
岩龍が武蔵と約束をし、伊崎より舟島へ渡ろうとしたところ、
浦の者が「武蔵は弟子を大勢引き連れて先ほど舟島へ渡りました、
多勢に無勢、一人ではとても敵いません、お帰りください」と岩龍を止めた。
しかし岩龍は「武士に二言はない、堅く約束した以上、
今日渡らないのは武士の恥、
もし多勢にて私を討つなら恥じるべきは武蔵」と言って強引に舟島に渡った。
浦人の言った通り、武蔵の弟子四人が加勢をして、ついに岩龍は討たれた。
しかし岩龍を止めた浦人たちが岩龍の義心に感じ入り墓を築いて、
今のように岩龍島と呼ぶようになった。
なお、
宮本の子孫が今も小倉の家中にあり、武蔵の墓は岩龍島の方向を向いているという。
『武公伝』宝暦5年(1755年)
巖流小次郎は富田勢源の家人で、常に勢源の打太刀を勤め三尺の太刀を扱えるようになり、
18歳で自流を立て巖流と号した。
その後、小倉城主の細川忠興に気に入られ小倉に留まった。
慶長17年に京より武蔵が父・無二の縁で細川家の家老・松井興長を訪ね小次郎との勝負を願い出た。興長は武蔵を屋敷に留め、御家老中寄合で忠興公に伝わり、
向島(舟島)で勝負をすることになった。
勝負の日、島に近づくことは固く禁じられた。
勝負の前日、興長から武蔵に、勝負の許可と、明日は小次郎は細川家の船、
武蔵は松井家の船で島に渡るように伝えられた。
武蔵は喜んだが、すぐに小倉を去った。
皆は滞在中に巖流の凄さを知った武蔵が逃げたのだと噂した。
武蔵は下関の問屋・小林太郎右衛門の許に移っていた。
興長には、興長への迷惑を理由に小倉を去ったと伝えた。
試合当日、勝負の時刻を知らせる飛脚が小倉から度々訪れても武蔵は遅くまで寝ていた。
やっと起きて、朝食を喰った後、武蔵は、太郎右衛門から艫を貰い削り木刀を作った。
その後、太郎右衛門の家奴(村屋勘八郎)を漕ぎ手として舟で島に向かった。
待たされた小次郎は武蔵の姿を見ると憤然として
「汝後レタリ(来るのが遅い!)」と言った。
木刀を持って武蔵が汀より来ると小次郎は三尺の刀を抜き鞘を水中に投げ捨てた。
武蔵は「小次郎負タリ勝ハ何ゾ其鞘ヲ捨ント
(小次郎、敗れたり。勝つつもりならば大事な鞘を捨てはしないはずだ。)」と語った。
小次郎は怒って武蔵の眉間を打ち、武蔵の鉢巻が切れた。
同時に武蔵も木刀を小次郎の頭にぶつけた。
倒れた小次郎に近づいた武蔵に小次郎が切りかかり、武蔵の膝上の袷衣の裾を切った。
武蔵の木刀が小次郎の脇下を打ち骨が折れた小次郎は気絶した。
武蔵は手で小次郎の口鼻を蓋って死活を窺った後、
検使に一礼し、舟に乗って帰路に着き半弓で射かけられたが捕まらなかった。
まとめ
どうでしょうか、
長々と諸説を載せましたが、
最後の『武公伝』に
「小次郎、敗れたり」とあります。
私勝手ですが、
この説がやはりしっくりきます。
横浜流星さんが
新解釈の物語ということで、
史実を大事にしながらも自分にしか出せないものを出す。
とおっしゃっていましたが、
史実は多説あり定かではありません。
いったいどんな舞台になるんでしょうか。
楽しみです。
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