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負け組の戦国ダメ武将!?レアな3人とは?にっぽん!歴史鑑定

歴史

こんにちは、

よーちゃんです。

今回は、戦国物です

戦国の勝ち組といえば

織田信長・豊臣秀吉・徳川家康ですね。

では負け組は?

明智光秀・石田三成でしょうか。

勝ち組ばかりにスポットライトが当たりがちの戦国物ドラマ・映画が多い中、

元祖「歴女」としては以前から負け組を主人公にしたドラマを見たいと思っていました。

2020年に大河ドラマ「麒麟(きりん)がくる」で、

明智光秀が主人公でしたね。

でも本当に明智光秀・石田三成だけなんでしょうか。

にっぽん!歴史鑑定
BS-TBS 2022年9月26日 月曜日22:00~22:54放送
「信長・秀吉・家康は雲の上!最もダメな戦国武将は誰だ!?」

この番組はCSの「ヒストリーチャンネル」でよく見ています。

ちょっと気なるので調べてみました。

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番組内容

勝者の目線から 語られることが多い中あえて、戦国時代の負け組たちに焦点を当てています。
なかでも3人のダメ武将。

  1. 常陸国の小田氏治
  2. 今川義元の弟・氏豊
  3. 会津の大名・蘆名盛隆

この3人は定説ではどんな武将だったんでしょうか。

小田氏治

天文3年(1534年)または享禄4年2月24日(1531年3月12日)
                    ~ 慶長6年閏11月13日(1602年1月6日)

居城・小田城を幾度も敵に奪われ、大名小田氏最後の当主となったため、「戦国最弱の大名」などと低く評価されることが多い。また「小田城を何度も落城させた名族大名」と揶揄されることもある。しかし永禄7年(1564年)の山王堂の戦いで上杉謙信に敗れて、小田城を失い多くの将兵が討ち死にするなど、その損失は多大であったにもかかわらず、1年ほどで小田城を奪回している。これは小田氏を守る譜代の家臣団の団結がいかに強固であったかを物語ると同時に、氏治の力量を示すものであった。Wikipediaより

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今川義氏豊

大永2年(1522年)?~死没 不明

今川 氏豊(いまがわ うじとよ)は、戦国時代の武将。尾張国那古野城主。兄の今川彦五郎と同一人物とも考えられていたが、最近の研究では別人とされている。また、氏豊の名は今川氏の良質の文書には現れず、氏親の子ではなく傍流という説もある。
大永年間(1521年 – 1528年)に氏親は今川氏の一族である今川那古野氏の領地だった尾張国那古野の地に城を築き(那古野城、後の名古屋城)、末子の氏豊を今川那古野氏の養子として入れ城主とした。氏豊は斯波義達の娘を娶り斯波氏と姻戚の関係になった。那古野氏は明徳・応永年間に今川仲秋が尾張守護となった際、尾張に代官として封じられた今川氏の一族(仲秋の庶子とも)で、氏豊はその家の養子となったとされている。


那古野城を奪われた後、駿河に帰らず京に逃れた理由は不明で、今川家の家督争いの花倉の乱にも関与していない。そのため氏親の子ではなかったのではないかという説もある。また、弘治3年(1557年)3月、山科言継は駿府から京へ帰る途中、駿河藤枝で「今川那古屋殿」に病気見舞いの使者を遣わしている(『言継卿記』)が、この「今川那古屋殿」を氏豊とみれば、那古野城を追われた後、一時京に逃れたかもしれないが、最終的には今川義元の許に迎えられたと考えられる。義元の尾張侵攻の目的の一つとして、氏豊の旧領地回復及び那古野城の奪還をあげる考え方がある。Wikipediaより

蘆名盛隆

永禄4年(1561年)~ 天正12年10月6日(1584年11月8日)

黒川城内で寵臣であった大庭三左衛門に襲われて死亡した。享年24。
『奥羽永慶軍記』は猛勇ではあったが、知恵や仁徳が無かったと伝えている。
『新編会津風土記』は、大庭三左衛門が盛隆を襲った理由について、男色のもつれが原因としている。
『武功雑記』などに、男色絡みの逸話がいくつか残されている。Wikipediaより

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まとめ

小田氏治・・・戦国最弱の大名と呼ばれています。


今川氏豊・・・記述が少なく、あまり知られていません。


会津の大名・蘆名盛隆・・・男色のために身を滅びした!?

ザックリとこんな感じですね。

番組では新たにどのようなことが紹介されるか楽しみです。

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