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木村拓哉絶賛!綾瀬はるかはよく動く。濃姫の正体と最後とは?

映画

こんにちは、

よーちゃんです。

それは、こんな内容から始まりました。

木村拓哉 “妻”への思い 鶴瓶「この人がおったから…」に共感「それはありますね、間違いなく」

 俳優の木村拓哉(50)が27日放送のTBS「A-Studio+」(金曜後11・00)にゲスト出演。“妻”への思いを語った。

 27日に公開された東映70周年記念映画「レジェンド&バタフライ」(監督・大友啓史)で主演し、織田信長役を務めた木村。

妻の濃姫役を女優の綾瀬はるかが演じた。

MCの笑福亭鶴瓶は、映画で織田信長と濃姫の夫婦像を見て「今の夫婦、こっち(木村)もそうやわな、夫婦とわりと似てるよね。夫婦の心情…この人がおったから、うちのやつがおったからっていう。50年やけど結婚して、あの時期でこれで助けてもらったっていうのはあんのよね」と自身の経験も重ね合わせた様子。木村も「それはありますね、間違いなく」とうなずき、鶴瓶は「だからよかったんやっていうのがすごい分かったね」と映画を絶賛した。

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木村さんは綾瀬さんの演技に感心したらしく、こんな発言もしています。

 綾瀬について木村は「うまいっすね。動けますよ。すごい、びっくりしました。アクション部のスタッフの方がこうしたらいかがですかって提示してくれるんですけど…スタッフの方はジャージ着られてるんですよね。で、僕らは着物着てるんで、着物だとそれ厳しいかもってなって…最終的には綾瀬さんと自分であそこは全部作ってました。(動かないように見えて、めちゃくちゃ動く)そういうギャップって最高じゃないですか」と振り返った。

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この映画で、濃姫のイメージが変わる方もいらっしゃるのでは。

ここで、濃姫の最後についておさらいです。

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濃姫(のうひめ / のひめ)

天文4年(1535年)の生まれとされています。

戦国時代から安土桃山時代にかけての女性。

通説では、美濃の戦国大名である斎藤道三(長井秀龍)の娘で、政略結婚で尾張の戦国大名の織田信長に嫁ぎ、信長の正室になったとされています。

しかし、名前や呼称は確かではないようです。

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呼び名

『信長公記』には、平手政秀によって政略結婚が成立しています。

美濃の道三の娘が尾張の戦国大名・織田信秀の嫡男(信長)に嫁いだと書かれているが、その名前は書かれていません。

濃姫という名前も登場しないようです。

『絵本太閤記』や『武将感状記』で、濃姫(のひめ)として登場しています。

このことから、「濃姫」が有名になったようです。
(以下、映画にちなんで濃姫で記載させていただきます)

美濃国の高貴な女、美濃からきた姫、美濃姫を省略して濃姫と呼んだ。

よって、本名ではないという説があります。

江戸時代に成立した『美濃国諸旧記』では帰蝶/歸蝶(きちょう)となっています。
昨今では、「麒麟が来る」で”帰蝶”となっていました。

この『美濃国諸旧記』で、天文17年(1548年)に秀龍(道三)が稲葉山城を斎藤義龍に譲って出家。

再び道三と号して鷺山城に退き、翌年にこの城から古渡城の信長のもとに姫が嫁いでいます。

そのために、鷺山殿(さぎやまどの)と呼ばれていたと書かれていますが、これは名前ではなく、当時の習慣に基づいたもののようです。

また、『武功夜話』では胡蝶(こちょう)とされています。
帰蝶は胡蝶の誤読であるという説もあります。

信長の妻としては、於濃の方(おのうのかた)とも呼ばれていたようです。

しかし、『絵本太閤記』等の通俗本の呼称である濃姫を元にするよりは、鷺山殿の称の方が由来は明確かもしれません。

『美濃国諸旧記』では上総介信長の北の方(正室)となったとの記述もあります。

それに基づくと鷺山殿が信長の正室であったと考えることができます。

最近の説では、『織田信雄分限帳』に、あつち殿(安土殿)という女性が書かれています。

これが濃姫を指すのではないかと考えられている説です。

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濃姫の最後

濃姫の史料は極めて乏しく、実証が難しいために、その実像には謎が多いのが現状のようです。

2人の間には子ができなかったというのが通説ですが、信長の子供、特に女児の生母は不明の場合が多く、本当に子がいなかったかすら確かではないようです。

史料価値があると考えられている『信長公記』には入輿について短い記述があるだけでその後は一切登場していません。

斎藤家の菩提寺常在寺に父・道三の肖像を寄進した(時期不明)と寺伝にあるのを最後に、濃姫は歴史の記録から完全に姿を消しています。

このために濃姫の没年は不明で、菩提寺も戒名も特定されていません。

そのためか、濃姫の最後にはいろいろな説があるようです。

死亡説

織田家の公式行事などを記した史料に濃姫に関することが登場していません。

それは、病気など何らかの理由で死んだためだと考える説です。

桑田忠親は、天文17年(1548年)、14歳で信長に嫁ぎ、正妻となった。

しかし、初期の側室の生駒氏が弘治3年(1557年)に信長の嫡男・織田信忠を産む以前に、20歳くらいで病死したのではないかと推測しています。

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戦死説

いわゆる、濃姫が本能寺の変の際に薙刀を振るって信長とともに敵兵と戦って戦死という説です。

本能寺の変の際に濃姫が戦死したという話は、一度として史料で確認されたことはないようです。

いわゆる小説の世界での話で、確かなものではないようです。

『美濃国諸旧記』によれば濃姫と信長は1歳違いなので、本能寺の変の時に亡くなった場合、享年48となります。

『本能寺焼討之図』(楊斎延一作) 『絵本太閤記』の場面を描いたもので、中央右奥、安田作兵衛の向こう側で長刀を振るう花柄の着物の人物は濃姫を描いたものである。Yahooより
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生存説

民間伝承としては、岐阜県岐阜市不動町には本能寺の変の際に信長の家臣の一人が濃姫の遺髪を携えて京から逃れて、この地に辿り着き埋葬したという濃姫遺髪塚(西野不動堂)があります。

『言継卿記』に、信長が足利義昭を擁して上洛した後の永禄12年(1569年)7月条に、斎藤義龍の後家(近江の方)を庇う信長本妻という記述があります。

濃姫の生存を示すという説です。

また、寛永年間の『氏郷記』には、安土城二の丸の留守居であった御番衆の蒲生賢秀が本能寺の変直後に安土城から日野城へ「信長公御台君達など」を避難させたという記述があります。

この「御台」や「北の方」は濃姫のことを指していて、変の時には彼女らは安土城にいたとしても特に矛盾はないのでは?という説です。

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まとめ

このように濃姫に関しては実像が乏しく、いろんな説があり定かではありません。

そのため、小説・ドラマ・映画など、いろんな濃姫が登場します。

綾瀬はるかさんの濃姫は”勇ましい濃姫”のようでそす。

このような濃姫を過去に演じられたことが果たしてあるでしょうか。

そんな濃姫をいろんな作品で見比べるのも面白いかもしれません。

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